【寂光院/京都大原】諸行無常と侘びの美しさ

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©︎RIKA(寂光院/京都)

京都駅からバスで1時間ほど、歴史深い寺院が点在する、京都市左京区の「大原」。

豊かな自然に囲まれ、お食事処やお土産店なども多く、散策しているだけでも楽しい大原は、日本一の紫蘇(しそ)畑の里としても知られています。

その大原の北西部、草生(くさお)の里に位置する「寂光院」は、平家物語ゆかりの寺院として大変有名で、平安末期の武将平清盛(1118年〜 181年)の次女であった建礼門院(平徳子:安徳天皇の生母)が入寺し、平家一門の菩提を弔いながらこの寂光院で余生を過ごしました。

平家物語において後白河法皇(1127年〜1192年)が建礼門院を訪ねる「大原御幸」は特に人々に愛されています。

今回は、私が寂光院で撮影した写真とともに、平家物語の歴史と建礼門院の余生について綴ってまいります。

目次

寂光院

寂光院は天台宗の尼寺(尼が住持である寺院)で、594年(推古2年)に聖徳太子が用明天皇の菩提を弔うために創建したと伝えられています。

本堂は大変残念なことに2000年に放火によって焼失してしまったため、現在の本堂は2007年に再建されました。

御本尊の地蔵菩薩像も火災によって焼損してしまいましたが、中に納められていた「像内納入品」は無事だったそうです。

不幸中の幸いと言えなくもないですが、他にも多くの貴重な文化財が焼失してしまい、関係者の方々の心痛は計り知れません。

▼ 寂光院の門へ続く石段。静寂に包まれています。

▼ 寂光院の門。侘び寂びの美しさを感じさせます。

▼ 本堂の西側には、風情ある庭園が広がっています。

平家物語

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす

平家物語(作者不詳)の冒頭

「常なるものは必ず滅びる」という仏教の説く真理で始まる「平家物語」は、平清盛一門の栄枯盛衰の歴史や武士の台頭などを描いた軍記物語で、鎌倉時代から室町時代にかけて、「琵琶法師」たちの語りによって民間に広まったことで知られています。

(平家物語/Wikipedia)

平家物語の作者は不明ですが、吉田兼好によって書かれた「徒然草」に平家物語に関する記述があり、信濃前司行長なる人物(藤原行長説が有力)がつくった平家物語を、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたと伝えられています。

生まれつき目の不自由な方々はもちろんのこと、現代では比較的治るような眼病であっても、医学の発達していなかった当時はそのまま視力を失ってしまうことも多かったため、そのような人々を保護し、仕事を与える目的でつくられたのが琵琶法師でした。

一説によると、仁明天皇(在位:833年〜850年)の第4皇子であった「人康親王(さねやすしんのう)」が琵琶法師の祖神とされていまして、彼は若くして目を患い、28歳で出家して京都の山科に隠棲し、目の不自由な人々を集めて、もともと得意であった琵琶や詩歌を教えていたのだそうです。

親王の崩御後、側に仕えていた人たちには「検校(けんぎょう)」という地位が与えられ、室町時代以降に盲人男性により組織された職能・芸道団体「当道(とうどう)」の最高位を表す「検校」はこれが由来となっています。

当道は平曲、三味線、鍼灸、按摩、箏曲などに携わり、特別な技能集団として幕府の庇護を受け、武家社会に享受されていきました。

平曲とは、平家物語を琵琶の調べにのせ、曲節をつけて弾き語りをする「語り物」を意味し、鎌倉時代末期には「八坂流」と「一方流」に分かれて伝承し、一方流の明石覚一(あかしかくいち:足利尊氏の従兄弟)によって大成されました。

都合寂光院に伝わる平曲は「覚一本(かくいちぼん)」と呼ばれる最も広く流布したもので、巻1〜巻12に「灌頂(かんじょう)の巻」を加えた13巻から成り、この最終章は大原御幸(おおはらごこう)を中心に建礼門院の晩年の話が描かれています。「御幸」とは、天皇の「行幸」に対して「上皇・法皇・女院の外出」を指します。

平家物語には語り物系と読み物系とがあり、潤色や取捨選択が繰り返され、全編を通して仏教の「諸行無常」の精神をまとめた性格をもっているため、どれが史実に基づいているかは専門家の間でも様々な説があるようです。

印刷技術のなかった時代、古典作品はひと文字ずつ書き写されていましたので、写し間違いや改変などもあって、多くの異本が存在するのが普通でした。

平清盛と後白河法皇

(平清盛/Wikipedia)

平清盛は1118年(永久6年)、平忠盛の長男(落胤という説もある)として生まれ、武士として初めて「太政大臣(大臣の最高位)」にまでのぼりつめた人物として知られています。

平安末期の日本では、貴族の勢力が衰え、上皇による政治「院政」が行われていました。ふつう「院政時代」というと、白河、鳥羽、後白河の時代を指します。

そして勢力を失った貴族に代わり、それまで格下だった武士たちは武力集団として強い力を持つようになっていきました。その中で特に軍事力が優れていたのが平氏源氏です。

もともと皇室・貴族同士の争いであった「保元の乱(1156年〜1159年)」や「平治の乱(1159年)」において対立勢力を一掃した清盛は、後白河上皇(1169年に出家)の信頼を得て出世し、平家一門は大きな権力を握るようになっていきました。

天皇・上皇・法皇の違いについておさらいしますと、「天皇」は文字通り通常の天皇の称号で、崩御後にその元号が冠されます。「上皇」は天皇の位を後継者に譲ったあとの称号、そして「法皇」は、出家した上皇のことです。

(後白河法皇/Wikipedia)

そして後白河上皇は、清盛の妻時子の妹であった滋子(のちの建春門院)を寵愛し、その間に憲仁親王(のちの高倉天皇)が生まれました。

1158年に後白河上皇から譲位された二条天皇は在位8年で亡くなり、二条天皇の息子六条天皇もわずか3年で退位、そして1168年、高倉天皇が11歳で即位します。この不自然な皇位継承劇の裏には、天皇親政をはかって院政を停止させた二条天皇が崩御したことで、院政を続けたい後白河上皇が清盛と手を組み、強引に憲仁親王を即位させたという話があります。

当時、平家一門の公卿は10人以上、殿上人(天皇の生活の場である清涼殿の殿上間に昇ることを許された者)は30人以上いたそうで、事実上は平家の独裁体制にあったようです。つまり上皇としては、天皇は平家と血縁があるほうが都合が良かったのですね。

そして即位から3年後、11歳になった高倉天皇に、清盛の次女徳子が15歳で入内し、娘の一人が天皇の妃となったことで、平家の家格も上がる一方でした。

(平徳子/Wikipedia)

清盛は海外貿易の拡大にも熱心で、瀬戸内海の航路・港湾整備を行い、日宋貿易の発展に尽力し、宋銭を日本国内で流通させて莫大な財貨を獲得、通貨経済の基礎を築いたことでも知られています。さらに日本全国に数多くの荘園を保有しており、平家一族は栄華のときを迎えました。

1176年に高倉天皇の母である建春門院(滋子)が亡くなり、後白河法皇と清盛の縁が徐々に薄くなるにつれて、力を持ちすぎた平家一門に対して法皇や院の近臣たちが不満を持ち始め、平家打倒を企てます。

そして1177年(安元3年)、京都の東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)で密かに謀議されていた平家打倒の計画が露見し、関わった者たちは根こそぎ処罰されました。これを「鹿ヶ谷の陰謀」といいます。

1178年、高倉天皇に待望の皇子、言人親王(のちの安徳天皇)が誕生しますが、その翌年に清盛の娘盛子、そして息子の重盛が相次いで亡くなり、さらに重盛の知行国(越前)が後白河法皇によって没収されるなど、不幸な出来事が続きました。知行国とは、皇族や公家などに、それぞれの地方(国)をまとめる「国司」を任命し、集めた税の一部を与える制度のことをいいます。

清盛もこれにはさすがに我慢出来ずクーデターを起こし、法皇の身柄を洛南に移送して幽閉し、後白河院政は停止してしまいました。この「治承三年の政変」によって、清盛は自分を嫌う公卿や殿上人の官職を解き、自分に好意的な公家たちに重要な役職を与えることによって政治の実権を握るようになりました。

1180年(治承4年)に安徳天皇が3歳で即位し、平家政権は絶頂に達します。

このことを快く思っていない以仁王(もちひとおう:後白河法皇の第3皇子)は、源頼政とともに平家追討を計画して全国の源氏に挙兵を呼びかけますが、途中で露見してしまったため平家の軍勢に討たれて亡くなってしまいました。

この頃、「禿童(かむろ)」と呼ばれるおかっぱ頭の密偵を数百人ほど平安京内に放ち、特に平家政権に対する批判や謀議の情報などを密告させていたため、謀略は清盛に筒抜けだったのです。

京都を危険と判断した清盛は、福原(神戸)へと都を移したのですが、これにより公卿はおろか平家一門の反感まで買ってしまうことになり、たった5ヶ月でもとの平安京へ遷都されました。

そして先の以仁王の令旨(りょうじ)がきっかけとなって、全国の源氏が打倒平家を掲げて立ち上がり、ついに源頼朝(1147年〜1199年)が挙兵して反乱を起こします。

その知らせを受けて東国に向かった平家軍でしたが、駿河(静岡)に入る頃には飢えと疲弊で勢力が落ちてしまい、富士川の決戦前夜、水鳥の群れが羽ばたく音を源氏の大軍が攻めてきたと勘違いして大混乱に陥り、あっけなく撤退してしまいました。これが「富士川の戦い」です。

同年12月、平家軍は園城寺、興福寺、東大寺を次々と焼き払い、ほとんどの堂舎とともに多くの仏像や経典が灰塵と化しました。

1181年(治承4年)に高倉上皇が崩御し、それからほどなくして清盛は熱病に倒れ、「頼朝の首を我が墓前に」の言葉を残して、その波乱に満ちた生涯を閉じました。

栄枯盛衰

1183年(寿永2年)、頼朝の従兄弟にあたる源義仲(1154年〜1184年)の軍勢は平維盛の大軍を俱利伽羅峠(富山県/石川県)にて破り、平氏は兵力の大半を失いました。義仲の大軍が京に迫ってくると、平家一門は都落ちして西国に赴きます。

その間、源頼朝が送った義経らの軍はまず義仲を追払い、「一ノ谷の合戦」で崖から馬に乗って一気に駆け降りる奇襲を仕掛け、平家軍に勝利しました。

ついに1185年(文治元年)、壇ノ浦(山口県)でとうとう平家軍は義経軍に敗れ、二位尼(時子)は安徳天皇を抱いて入水し、徳子も海に身を投げました。

※「吾妻鏡」では、仕えていた按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)が安徳天皇を抱き、時子は神釼を奉持していたとの記述があるそうです。

身体が浮いてしまい死にきれなかった徳子は、源氏軍が海を掻く熊手に引っ掛かり、生け捕りにされて都に送還されましたが、先帝の生母であることから断罪はされず、その後仏門に入ります。

そして大原寂光院に閑居し、昼夜念仏を唱えて、平家一門の冥福を祈り続ける日々を送りました。

大原御幸

(大原御幸/月岡耕漁『能楽図絵』/Wikipedia)

文治2年(1186)の4月を過ぎた頃、寂光院の建礼門院のもとを後白河法皇が訪れた話が、平家物語の最終章「灌頂の巻」に描かれています。

突然の法皇の御幸に、初めは逢うことを拒んだ女院でしたが、阿波内侍(あわのないし:崇徳天皇の寵愛をうけた女官)に諭されて対面しました。そして自らの人生を仏教の六道になぞらえて涙ながらに語る姿に、法皇も涙したといいます。

※ 六道とは、仏教において全ての衆生が生死を繰り返す六つの世界を表し、天上道、人間道、餓鬼道、修羅道、地獄道、畜生道 を指します。

1213年(建保元年)、女院はこの地で天寿を全うし、その人生に幕を下ろしました。

この「大原御幸」は平家物語本編の成立後100年ほど経過してから付け加えられたもので、「後白河法皇はそんな殊勝な人物ではない」とする説もあり、真偽のほどは不明です。

しかし、隆盛を極めた平家一族にあって、法皇と清盛に翻弄され続けた建礼門院の余生に法皇の涙が添えられる場面は、栄枯盛衰を説く平家物語の締めくくりに必要なのかも知れません。

▼ 寂光院の境内、美しい苔庭に佇むお地蔵様。


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