【鞍馬寺】京の奥座敷と天狗伝説

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©︎RIKA /京都・鞍馬寺の仁王門

京都の中心部から北へと延びる叡山電鉄「鞍馬駅」から歩いてすぐ、古くから「天狗の棲み処」として伝えられる鞍馬山の中腹に、牛若丸(源義経の幼名)が修行したことで有名な「鞍馬寺」があります。

源義経は、父である源頼朝が平治の乱(1159年)で敗れたことをきっかけに、7歳のときに鞍馬寺に預けられ、鞍馬天狗から兵法を習ったとされており、数々の言い伝えが散りばめられた「京都最強のパワースポット」として名高く、多くの人々が訪れています。

鞍馬寺の公式の御由緒によりますと、「650万年前に人類救済のために金星から飛来したサナト・クマーラがこの地に降り立った」とのことで、この霊山は起源からして圧倒的なスケールを誇っていることが窺い知れます。

鞍馬駅に降り立つと、ひときわ目を引く「鞍馬天狗」のオブジェがあり、天狗はこの地を創始したとされる「サナト・クマーラ」の一姿を表しているのだそうです。

▼ 鞍馬駅前の天狗のオブジェ

愛宕山の「太郎坊」、比叡山の「法性坊」、富士山の「太郎坊」など、日本全国に天狗信仰は存在しますが、鞍馬の「護法魔王尊」は天狗の総帥とされ、16歳から永遠に歳をとることがないといわれています。

そして鞍馬寺は、770年(宝亀元年)、奈良仏教に戒律をもたらした鑑真の高弟であった鑑禎が、ここに毘沙門天(多聞天)を祀る草庵を結んだことに始まるお寺で、さらに796年(延暦15年)に毘沙門天と観世音菩薩をあわせ祀ったと伝えられており、天台宗から独立した鞍馬弘教という独自の信仰を持つ総本山でもあります。

毘沙門天とは仏教の四天王の一人で、東西南北の四つの方角のうち、北方を守護する武神です。

  • 毘沙門天王:太陽の精霊で、真智の光の象徴
  • 千手観世音菩薩:月輪の精霊で、慈愛の象徴
  • 護法魔王尊:大地の霊王で、活力の象徴

今昔物語には、こんな話が載っています。

今昔、鞍馬寺に一人の修行の僧籠て行ひけり。

夜、薪を拾て、火を打ち、木を焼く間、夜深更て、羅刹鬼、女の形と成て、僧の所に来て、木を焼て火に向て居り。

僧、「此れ只の女に非じ、鬼也めり」と疑て、金杖の尻を焼て、鬼の胸に突立て、僧は逃げ去て、堂の西なる朽木の下に窃に隠れて曲まり居たり。

其の時に、鬼、胸に焼たる金杖を突立てられて、大きに忿を成して、僧の逃去たる跡を尋て、走り来て、僧を見付て、大口を開て、僧を噉むと為るに、僧、大きに恐ぢ怖れて、心を至して毘沙門天を念じ奉て、「我を助け給へ」と申す。

其の時に、其の朽木、俄に倒れて、鬼を打圧て殺しつ。然れば、僧、命を存する事を得て、弥よ毘沙門天を念じ奉る事限無し。

今昔物語集 巻17 第43話

鞍馬寺で一人の僧が修行をしていたときのこと。薪を拾って火を焚いていると、そこに女の姿をした鬼がやって来て座りました。僧はすぐにその正体を見破り、焼いた金串を鬼の胸に突き立てその場から逃げ、朽木の後ろに身をかがめて隠れました。鬼は激怒して僧をあとを追ってくるや、大きな口を開けて僧に襲い掛かろうとしました。僧はこのとき毘沙門天に「我を助け給え」と念じました。すると朽木が倒れて鬼を圧し潰し、僧は助かったのです。そしてこの僧が鑑禎だったと伝えられています。

鞍馬寺の参道を進み石段をのぼった先には、二体の仁王像がそびえる朱塗りの仁王門(山門)があります。

この門は1891年(明治24年)に焼失してしまいましたが1911年に再建され、元々はもっと下に立っていたのを1959年(昭和34年)に現在の場所に移築されたのだそうです。

▼ 山門を抜けてこの石段を上がったところに、ケーブルカーの始発の「山門駅」があり、源義経の幼名に因んで「牛若号」と名付けられた車両が、終点の「多宝塔駅」との間を往復しています。

▼ ケーブルカーから見下ろしたところ

ちなみに日本のケーブルカーは、例外なく「交走式」と呼ばれる運行方式で、鋼索の両端に車両を繋ぎ、井戸の「つるべ」のように一方の車両を引き上げると、もう一方の車両が降りてくる仕組みになっていますが、「日本一短い鉄道路線」といわれる鞍馬寺のケーブルカーは、片方をカウンターウェイト(ダミーの重り)にして一台の車両で運行しているのだそうです。

多宝塔は、もともと本殿金堂の東側にあったのですが、江戸時代後期に焼失してしまったため1959年(昭和34年)に再建されました。

多宝塔駅から本尊を安置する本殿金堂までは、歩いて10分ほどです。

本殿金堂の前には、金剛床と呼ばれる六芒星を表した石が敷き詰められた場所があり、ここで宇宙からのエネルギーをもらえるのだそうです。

そして鞍馬寺には「尊天」と呼ばれる毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊が祀られており、護法魔王尊像は60年に一度の「丙寅の年(西暦年を60で割って6が余る年)」に開扉される秘仏で、普段はお目にかかることは出来ません。

「尊天」とは宇宙の大霊、大公明、大活動体にましまし森羅万象、あらゆるものの根源 - 宇宙エネルギーであり真理そのものなのです。

鞍馬弘教総本山鞍馬寺

▼ 奥の院への入り口

また、本殿金堂から奥の院魔王殿へ至る「木の根道」を通って西の貴船神社へ抜けることが出来るそうで、私が奥の院参道の手前で立ち止まっているところを、他の参拝客の方々が「たったの2時間よ〜! 頑張って一緒に行きましょう!」と声をかけてくださったのですが、登りにケーブルカーを利用し、徒歩で九十九折参道を下りることにしたので今回は断念しました。。。

さて帰り道。

かの清少納言が枕草子において「近うて遠きもの くらまのつづらおりといふ道」と記した、「鞍馬の九十九折(つづらおり)」と呼ばれる、くねくねと長く続く参道を下りて進んでいきますと、火の神・三宝荒神を祀った由岐神社があります。
この神社は毎年10月22日に「鞍馬の火祭」の舞台となることで大変有名です。

▼ 由岐神社

由岐神社は、940年の平安京のころに、天慶の大地震(938年)や天慶の乱(平将門の乱)などが発生し都の民が不安を抱える中、当時の天皇であった朱雀天皇が、天下泰平と万民幸福を祈念し、北方鎮護のために創建した神社で、元々宮中にお祀りしていた由岐大明神がこの地に移されました。

そして1607年(慶長12年)から15年かけて、豊臣秀頼によって再建した拝殿があり、御祭神から商売繁盛、縁結び、火除け、狛犬から子孫繁栄・安産、そして「大杉社」の御神木と、御利益が数多くある神社として信仰されています。

▼ 由岐神社の御神木

鞍馬の火祭」は、由岐大明神が御所から鞍馬に勧請されたときに、村人たちがかがり火を焚いて迎えた故事がもとになっており、この儀式の様子と由岐大明神の霊験がお祭りとして脈々と後世に受け継がれています。毎年10月22日の夜、松明を持った人々が鞍馬街道を往来し、神輿渡御などの神事が執り行われます。

▼ さらに少し下りたところに、鬼一法眼が祀られた「鬼一法眼社」があります。

鬼一法眼は、室町時代初期に書かれた「義経記」に登場する伝説上の陰陽師で、京都一条堀川に住み、文武に優れた兵法家で、中国から伝来した「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を秘蔵していたそうです。

六韜三略とは中国の代表的な兵法書「武経七書」のひとつで、「」は剣や弓などを入れる袋を意味しています。

その一巻は「文韜」と「武韜」、二巻は「龍韜」と「虎韜」、三巻は「豹韜」と「犬韜」から成り、皆さんもよくご存知の「虎の巻」は「虎韜」のことで、兵法の極意として慣用句にもなっています。

▼ 鬼一法眼社の拝殿の横には「魔王の瀧」というものがありまして、小ぶりな滝の上に魔王が祀られています。滝のお水が見えますでしょうか?

一般的に、義経は天狗から兵法を教わったと伝えられていますが、「義経記」では、鞍馬山を出て奥州へ下った遮那王(義経の稚児名)は旅の途中で元服して「義経」と改め再び都へ上り、一条に住む鬼一法眼のもとへ入門しようとしますが断られたため、鬼一法眼の娘に恋をしかけ、秘蔵の書「六韜三略」を盗ませることに成功し、兵法を会得することが出来ました。
このことを知った鬼一法眼は激怒し、義経を討とうとしますが果たすことは出来ず、また義経に去られた娘は悲しみのあまり亡くなってしまったと記されています。

しかしここで気になるのが、鬼一法眼は架空の人物だということです。

つまり、「義経が虎の巻を盗んだ」というのは伝承でしかないわけですが、鞍馬に鬼一法眼を祀る神社があったり、さらに当時義経が書き写したという虎の巻が鞍馬寺に保管されていることを考えると、例えば服部半蔵松尾芭蕉の同一人物だという都市伝説のように、鬼一法眼は実在の人物から置き換えられて伝わっている可能性もあります。

その誰かを経由して兵法を身につけた義経と、サナト・クマーラの一姿である天狗とが組み合わさって、天狗から手解きを受けたということになったのかも知れませんが、いずれにしても大変興味深い伝説であることに変わりはありません。

京都市 左京区鞍馬本町1074番地 鞍馬弘教総本山鞍馬寺
https://www.kuramadera.or.jp/

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