英語で説明する【端午の節句② − 歴史と由来・中国の政治家 屈原の伝説】

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目次

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端午の節句の由来

皆さんもご存知のように、島国の日本は古来より中国の文化や風習を積極的に取り入れ、それが日本独自の文化と融合して定着することが大変多いのですが、端午の節句も例外ではなく、中国の古い慣習がルーツとなっています。

古代中国の伝統行事のひとつ、「端午節」は、中国における旧暦の5月5日にあたる日で、この時期には魔除けや健康のために、薬草である「菖蒲(しょうぶ)」や「蓬(よもぎ)」を摘んで飾ったり、菖蒲酒をつくって飲んだりしていたそうです。

そしてこの端午節は「龍船節」とも呼ばれ、このような無病息災を祈願する行事としてだけではなく、もうひとつの側面があります。

時は紀元前3世紀頃の中国の戦国時代、「戦国の七雄(韓・趙・魏・楚・燕・斉・秦)」のの国王であった懐王(かいおう)の側近に、屈原(くつげん:前340頃〜前277頃)という政治家がいました。

当時の楚は、台頭していたとの外交が非常に重要であり、秦と同盟して安全を保とうとする連衡策(親秦派)と、北方のなどとの集団的勢力で秦に対抗する合従策(親斉派)のどちらをとるかで選択を迫られており、屈原は親斉派で、秦は信用ならないとして秦同盟を結ぶことを強く主張していました。

屈原は家柄が良く人望もあり、詩人としても大変優れていたため、懐王の信頼も厚かったそうなのですが、真面目で剛直な性格がしばしば同僚の嫉妬の対象になり、親秦派の讒言(ざんげん:人をでっち上げなどによって陥れること)によって宮廷から遠ざけられて左遷されてしまいました。

その後、懐王は秦の宰相であった張儀(ちょうぎ)の謀略にまんまと嵌まり、国力はガタ落ち、とうとう秦に幽閉され、そのまま亡くなってしまいました。これが、懐王が中国戦国時代の暗君の代名詞とされている理由です。

「だから言ったのに. . . 」という屈原の絶望と憤りは想像に難くありません。
彼は楚の未来を悲観し、長江の支流のひとつである汨羅江(べきらこう)に身を投げて自殺を遂げてしまいました。この命日が、5月5日だといわれています。

このとき人々は、屈原を救おうと川に龍船(ドラゴンボート)を漕ぎ出し、太鼓を打ってその音で魚を脅かし、また魚が屈原の体をついばまないようにするために、糯米(もちごめ)を蒸してつくった粽(ちまき)を川に投げ入れたという伝説があり、これが現在世界各地で行われているスポーツ「ドラゴンボート」の起源になっているのだそうです。

やがて毎年、屈原の命日である5月5日に、川に粽を投げて屈原を追悼すると同時に、国の安泰を願うお祭りとして習慣化し、中国全土に広がっていきました。

そして話は日本に移ります。
日本では古来から、季節の変わり目を示す暦「立春・立夏・立秋・立冬」がありましたが、これに古代中国の「陰陽五行説」が伝わり、日本独自の「五節句文化」へ変化していきました。

5月は田植えのシーズンで、若い女性が神社などで体を清めて田植えに備える「五月忌み(さつきいみ)」と、奈良時代に伝わった中国の「端午節」の菖蒲や蓬を用いた邪気祓いの慣わしが融合し、これらの薬草を入れたお風呂に入ったり、軒先に飾ったりする風習が始まったといわれています。この頃は「菖蒲の節句」とも呼ばれていました。

「端午」は「月の(はじめ)の(うま)の日」という意味で、5月5日に限ったものではありませんでしたが、5月が多かったのと、十二支の午(ご)と五(ご)の音が同じなので、やがて毎年5月5日を指すようになって定着していきました。

そして鎌倉時代から室町時代、武士の台頭により武家社会へと変化していく過程で、「菖蒲(しょうぶ)」が「尚武(武道・軍事などを重んじること)」と音が同じであること、そして菖蒲の葉先が刀に似ていることから、「尚武の節日」を祝う行事として盛んに行われるようになっていきました。

武士の家に男児が生まれると、入り口に「(のぼり)」や「吹き流し」などを飾ったり、男の子に鎧兜を贈ることもあったようです。

もともと鎧や兜は、「虫干し」といって、梅雨の前に風に通して手入れをする習慣がありましたが、これが端午の節句の時期と重なったことにより、武士や我が子の命を守る鎧兜をお守りとして飾るしきたりになったと考えられています。

徳川の時代になると、5月5日は公的な祝日である「五節句」のひとつに定められ、端午の節句は「男の子のための節句」となり、これが現代の行事の原型となりました。

江戸の初期から町人の間では、中国の故事「登竜門」にちなみ、幟に鯉の絵を描くようになったのですが、その故事とは「黄河には竜門とよばれる滝があり、その竜門を登りきることができたは龍になることができる」というもので、鯉は立身出世の象徴として、現在の「鯉のぼり」の原型となっています。

日本において、登竜門と言う言葉は「●●新人賞は若手の登竜門である」のように広く使われています。

屈原の伝説を英語で説明

(屈原/Wikipedia)

The origin of the Boys’ Festival can be traced back to Chinese legend, where long ago a young minister named Qu Yuan (Kutsugen in Japanese) was so upset by the terrible conditions of his kingdom that he drowned himself in the Miluo River.
(端午の節句の起源は、大昔に国の情勢に悲観して汨羅江に身を投げた屈原という中国の政治家の伝承までさかのぼります。)

POINT

can be traced back to:〜までさかのぼる
物事のルーツを表現するときによく使われます。

Qu Yuan (c. 340–277 BC) was a Chinese minister of the State of Chu during the Warring States Period and was well-loved by the people.
(屈原は、中国戦国時代の楚の政治家で、人々から愛されていました。)

Over the course of the Warring States period, the Qin state had become the strongest of the seven major states (The Seven Warring States) in ancient China.
(古代中国の戦国時代にわたって、秦が7つの主要な国家の中で最も強大な国になりました。)

In the face of great pressure from the powerful Qin State, Qu Yuan advocated the unpopular policy of aligning with other kingdoms against the dominant Qin.
(権力的な秦の大きな圧力に直面し、屈原は支配的な秦に対抗するため他の国と同盟を結ぶことを提唱しました。)

Unfortunately for Qu Yuan, his jealous rivals in court had begun to spread rumors against him, and King Huai, believing the slander, grew to mistrust Qu and exiled him to the remotest of regions.
(屈原にとって不幸なことに、嫉妬深いライバルたちが屈原の悪評を流し始め、懐王もその中傷を真に受けて屈原を信じなくなり、遠くへ追放してしまいました。)

King Huai soon suffered as a result. With his most loyal counselor gone, he fell for the trickery of the Qin and Chu was eventually conquered.
(その結果、懐王はすぐに苦しむことになります。最も誠実な相談役がいなくなったことで、懐王は秦の策略に嵌まり、楚はとうとう征服されてしまいました。)

On May 5th, upon hearing of the fall of Chu’s capital, Qu Yuan committed suicide by throwing himself into the Miluo River.
(5月5日、楚の首都が陥落したという知らせを聞き、屈原は汨羅江に身を投げて自ら命を絶ってしまいました。)

After he jumped into the river, local people paddled boats (i.e., a dragon boat race) and dropped zongzi (rice dumplings) into the river to stop fish from eating his drowned body.
(彼が川に飛び込んだあと、地元の人々はボートを漕ぎ出し、川にちまきを投げ入れ、魚たちが彼の体をついばまないようにしました。)

Since then, Qu Yuan has become a symbol of patriotism, and May 5th was established as the “Dragon Boat Festival” by the later generations when people commemorate Qu Yuan by holding dragon boat races and eating zongzi.
(以来、屈原は愛国心の象徴となり、5月5日はのちに「龍船節」として定められ、人々はドラゴンボートレースを催したり、ちまきを食べたりして屈原を偲んでいます。)

日本における端午の節句の由来

Tango-no-sekku refers to one of Go-sekku, the five seasonal festivals.
(端午の節句とは、5つの季節行事である五節句のうちのひとつです。)

The word “tan” means “beginning,” and “tango” means the first day of “Go” (uma:horse in Japanese) of the month. In Japanese, “go” sounds the same as the number five.
(「端」は「初め」という意味で、「端午」は「午の月の初め」という意味です。日本語では「ご」は数字の5と同じ音です。)

In ancient China, it was customary to purify evil spirits with shōbu (iris leaves) which have a strong scent, in May.
(古代中国では、5月に香りの強い菖蒲の葉を用いて身を清める習慣がありました。)

It was introduced to Japan, and by taking a bath to which the leaves of iris were added, people hoped that evil spirits would be driven out of the body.
(この風習が日本に伝わり、人々は邪気を祓えるようにと、菖蒲をお風呂に入れていました。)

As the Japanese word “shōbu” has the same sound as the word meaning “samurai spirit” and “fight,” a seasonal festival to celebrate boys’ healthy growth was established.
(日本語の「しょうぶ」という言葉は「尚武」と「勝負」と同じ音であることから、男の子の健やかな成長をお祝いするようになりました。)

The tradition of decorating one’s home with gogatsu-ningyo dolls comes from Japanese samurai society. Suits of armor were very important for men in samurai society.
(五月人形を飾る風習は武家社会に由来しており、鎧兜は武士にとってとても大切なものでした。)

In the early Edo period, it is said that to pray for the social success of their son, the parents put up flags in their garden on which carp were drawn. This is the origin of the present-day “koinobori (carp streamers).
(江戸時代初期には、町人たちは息子の出世を願って、鯉を描いた幟を立てていたといわれています。これが現在の「鯉のぼり」の原点です。)

Koinobori originated in ancient Chinese legend.  In China, carp are believed to become dragons after climbing the waterfall called Ryūmon (dragon gate) in the rapids of the Yellow River, and then they are taken as a symbol of success in a career.
(鯉のぼりは中国の古い伝説が基になっています。中国では、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝をのぼり切った鯉は龍になれると信じられており、鯉は立身出世のシンボルとされています。)

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