【伏見稲荷大社】稲荷神と秦氏の謎

©︎RIKA(京都/伏見稲荷大社にて)

朱色の鳥居がトンネルのように並ぶ、圧巻の「千本鳥居」で大変有名な、京都の伏見区「稲荷山」に鎮座する伏見稲荷大社

全国に3万社あるといわれる稲荷神社の総本宮で、「稲荷」の名の通り、「稲荷大明神」が祀られており、「お稲荷さん」や「お稲荷様」とも呼ばれて親しまれています。

稲荷の神についての伝承は多岐に亘り、稲荷信仰には様々な言い伝えが存在します。

山背国風土記」の逸文には、秦氏の遠い祖先といわれる「伊侶具の秦公(いろぐのはたのきみ)」が、お餅を的にして矢を射たところ、白鳥の姿になって空を飛び、山の峰に降り立った場所に伊禰(いね)が奈利生えた、という記述が見られるそうです。お餅は神道において、稲魂、穀霊の象徴とされています。

室町以降の文献によりますと、五穀豊穣を司る神とされる宇迦之御魂(うかのみたま:須佐之男命の娘)が711年(和銅4年)に伊奈利山に降臨されたというのが始まりとされ、この頃に全国的に気候不順で不作の年が続き、「山背国(やましろのくに:現在の京都府中南部を占めた旧国名で、平安京の遷都により「山城」となった)」の伊奈利山に大神を祀ったところ大いに穂が稔り国は富み栄えた、この日こそが和銅4年の2月だった、という話があります。

この「伊奈利」が平安期に「稲荷」と記されるようになり、稲荷神を穀物神とするのは、稲荷が「稲成り」と解されるからという説が一般的です。そして古くから稲荷山には不思議な霊力があると信じられていたそうで、稲荷山の土を持ち帰って田畑に撒いていたという話もあります。

今回私は、伏見稲荷大社のすぐ近くのホテルに宿泊し、夜間の参拝に行ってまいりましたので、その様子を振り返りつつ、古代渡来氏族「秦氏」の謎に迫っていきたいと思います。

夜の伏見稲荷大社

ある6月の日の22時頃。夜の参道は暗いと思ったので小ぶりな懐中電灯を持参。

大鳥居をくぐって進んでいきますと、1589年(天正17年)に豊臣が造営したとされる、重要文化財の楼門にたどり着きます。

▼ 闇夜に浮かび上がる楼門。やはり昼間とは違った雰囲気があります。

境内を歩いていますと、至るところで稲荷大神のお使いである「」たちに出会います。
狐は稲荷神の神使(しんし)で、楼門前に鎮座している阿吽(あうん)の狐の像は、向かって左は「」を、右は「」をくわえています。

神使は眷属(けんぞく)とも呼ばれ、特定の神様と縁故があり、神意を伝えるために現世と接触する役割をもつと考えられている動物のことで、神道の説話にもよく登場します。
例えば伊勢神宮の鶏や八幡宮の亀、春日明神の鹿なども神使とされています。

稲荷大神の神使が何故「狐」なのかということについてははっきりとは分かっていませんが、いくつか説があるそうです。

  • 食物の神様を表す「御饌神(みけつかみ)」が転じて「御狐・三狐(みけつね)」になった
  • 狐の毛色が、豊かな稲穂の色を連想させる
  • 人を見ても物怖じせず隠れたりもしないので、神の使いではないかと信じられた
  • 春から秋にかけて里に現れ、稲の種まきと稔りの時期と重なるため、稲の守り神とされた

▼ 楼門を抜けますと拝殿があります。かつては稲荷山の上にあったそうですが、応仁・文明の乱で焼失したため、1499年(明応8年)に再建されました。

正面に6本の柱を用いた「五間社流造」で、柱間が5つになることからこのように呼ばれています。こちらも重要文化財です。

▼ 上末社と権殿(ごんでん)。権殿とは、本殿を改築・修理する際に、一時的に御神体を安置するための場所です。

▼ 異世界への入り口かのような雰囲気漂う、夜の千本鳥居。「千本」は実際の数ではなく、それだけ「たくさんある」ということを表しているのだそうです。

千本鳥居は、江戸時代に「俗世から神様のいらっしゃる世界へ通る門」として、願い事が「通る」「通った」お礼の意味から、鳥居を奉納する信仰が広まったのが始まりなのだそうです。

境内は稲荷山西麓を含め約87万平方メートルで、大小全てを含めると約1万基以上もの鳥居があるとのことで、現在でも様々な願いを込めて多くの方々が鳥居を奉納されています。

本殿から稲荷山の最高峰「一ノ峰」までは 約2km で、千本鳥居を抜けてからは「奥社奉拝所」→「熊鷹社」、そして「四つ辻」からは「一ノ峰」→「二ノ峰」→「間ノ峰」→「三ノ峰」→「四つ辻」と時計回りに巡るのが正式なルートだそうです。

▼ 「四つ辻」で撮影。結構のぼってきたと思ったのに、あまり進んでいないことに驚愕。

▼ 大鳥居と月。

謎の渡来系氏族・秦氏

伏見稲荷大社は古代渡来系氏族「秦(はた)氏」の氏神が祀られている神社のひとつとして知られ、このほか八坂神社、上賀茂神社、下鴨神社、松尾大社、大酒神社などの京都を代表する多くの神社が、秦氏の影響下にあったといわれています。

秦氏は飛鳥時代から平安時代にかけて京都で活躍していたと伝えられており、「日本人よりも日本人になった氏族」として、特に5世紀から6世紀にかけて数万人規模となって日本中に勢力が拡大していきました。

秦一族のルーツには諸説ありますが、そのうちのひとつに「秦氏の祖先が実はユダヤ人で、中国の秦の始皇帝の時代(紀元前247年〜前221年)に中国経由で日本に渡って来た」という話があります。いわゆる「日ユ同祖論」です。

ここで言う「ユダヤ人」とは、「旧約聖書に登場する紀元前17世紀頃のアブラハムの子孫であるヘブライ人(古代イスラエル人)」を指します。

旧約聖書の「出エジプト記」によりますと、古代イスラエル人の伝説的指導者であったモーセは、当時カナンの地(パレスチナ地方・イスラエルの古名)に住んでいましたが、エジプトに移住したのち、エジプトで奴隷と化したイスラエル人たちの窮状を見て、彼らを率いてエジプトを脱出し、元のカナンへ向かいました。

その時、エジプト軍に追われたモーセがユダヤの神(ヤハウェ)に祈ったところ、紅海の海の水が割れて地面が現れ、モーセたちはそこを渡ることによって、無事にエジプト軍の追跡から逃れることが出来た、という物語は大変有名です。

余談ですが、数年前に米大気研究センターとコロラド大学ボルダー校の研究チームが、風が水に与える影響についてコンピューターによるシミュレーションを行ったところ、一晩中吹き続く強い風が水を分断し、その水が沿岸の礁湖まで押し戻されることによって道ができる可能性があると発表されたことがあるそうで、これは流体力学によって説明することができ、シミュレーション結果は出エジプト記の記述と正確に一致したとのことです。

エジプトを脱出したユダヤ人は当時12氏族いましたが、そのうちの10氏族はその後の行方が分からなくなっており、これは「失われた10氏族」と呼ばれています。

この10氏族が何百年もかけて世界各地へ分散していき、そのうちの数氏族が東へ東へと移動して、秦国(現在の中国)そして朝鮮半島を通って海を渡り、日本列島に辿り着いた、と考えられています。

一説によると、古代から18世紀にかけて東西の交易路であったシルクロードの西部、現在のカザフスタンの辺りに「弓月国(ゆづきのくに)」という国家があったといわれているのですが、日本書紀には、秦氏の祖先は「弓月君(ゆづきのきみ)」で、百済から120県の民を率いて日本に渡ろうとしていたところを新羅(しらぎ)の妨害に遭い、応神天皇(実在したとすれば4世紀後半頃)が軍勢を派遣して渡来させたと記載されており、この弓月君の子孫たちが、秦一族として日本中で勢力を伸ばしていったということのようです。

はた」は、ネストリウス派キリスト教の祭司を意味する「パトリアーク」のことで、漢字にすると「波多」となり、これが「秦」姓の由来のひとつとなっている、という話もあります。

ちなみに秦氏は「秦の始皇帝の後裔」という説がありますが、これは秦氏自らが「権威を高めるために王朝の名を借りた」という説が有力らしいのですが、本当のところは分かっていません。

また、平安京はヘブライ語で「イール・シャローム」、すなわちイスラエルの首都「エルサレム」を意味し、高度な土木測量技術を持つエキスパート集団、つまり秦氏がその勢力と財力を投じて造営したとされ、平安京は日本海と琵琶湖の中間に、エルサレムは地中海と死海の中間に位置しており、地理的にも似ていることが指摘されています。

そして秦氏は当時の日本の衣食住に大きな影響を与え、寺院の建立、土木測量、灌漑、稲作、養蚕、機織り、酒造などに深く関わっており、古代ユダヤの知識が余すところなく継承されているといわれています。

このほかにも、日本と古代ユダヤが関係していると思われるものは色々とあります。後付けと言われればそれまでですが、秦氏がヘブライ語を使っていたと仮定するのも面白いのではないでしょうか。

  • 「大和(ヤマト)」はヘブライ語でヤー・ウマト、「ヤハウェの民」を意味する。
  • 「祇園」はヘブライ語の「シオン(ツィオン → ザイオン → ギオン)」に由来するという説があり、これはエルサレムの別名である。
  • ユダヤ教の聖書(タナハ)における最初の「モーセ五書」のことをヘブライ語で「トーラー」と言い、その巻物は「トーラースクロール」と呼ばれ、日本語に訳すと「虎の巻」である。
  • ユダヤ教のシンボルである「六芒星」が、日本最高峰の神社である伊勢神宮や、天狗伝説で有名な鞍馬寺、徳川家康を祀る日光東照宮などに存在する。
  • 天狗の赤い顔と高い鼻はユダヤ人を表しているとする説がある。
  • 天狗・山伏が頭に載せる「兜巾」は、ユダヤ教徒が祈りの時に額に付ける黒い小さな箱「ヒラクリティー」によく似ている。

日本神話とギリシャ神話

秦氏が日本に渡来する以前にも、失われた10氏族のうちの他の部族が日本にたどり着いて縄文人と共存していた可能性もあり、その時から既にギリシャ時代の文化がもたらされ、古代日本の宗教精神、「神道」の基礎が築かれたのではないかという見解もあります。

日本神話とギリシャ神話には共通点が非常に多いことがよく知られており、代表的なものには以下の2つが挙げられます。

①「伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)」と「オルフェウスとエウリディケ」

共通点:「夫が、亡き妻を甦らせるために冥界に行くが、そこでタブーを犯してしまったために妻を連れて帰ることが出来ず、二度と現世と冥界との往来が叶わなくなる」

②「須佐之男命(スサノオノミコト)と櫛名田比売(クシナダヒメ)」と「テセウスとアリアドネー」

共通点:「怪物を倒し、犠牲になるところだった娘を助けて妻にする」

スサノオノミコトはヤマタノオロチ(八岐大蛇)を、テセウスはクレタ島の迷宮で有名なミノタウロス(人身牛頭)を退治しました。

「日ユ同祖論」については懐疑的な研究者も多いですし、日本人の「西洋コンプレックス」から生まれたのではないかとする声もあります。

しかしながら、「古文書や伝承が全て史実に基づいているとは限らない」のは他の歴史の説についても言えることですので、「本当のところは分からない」という古代の謎には、まだまだ尽きることのないロマンが隠れているのではないでしょうか。

おまけ

翌日の昼間に再び参拝にお邪魔しまして、伏見稲荷大社の境内にあります「稲荷茶寮」さんで一休みさせていただきました。お天気も良く、テラス席で気持ちの良いティータイムを過ごせました。

ぜんざいや抹茶のソフトクリーム、かき氷などがあります。

▼ いただいた「稲荷パフェ」は、抹茶アイス、あんこ、黒豆、白玉、お米のパフなどが入って満足感があります。鳥居の飾りがとっても可愛らしいです。

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